(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを(ア)~(エ)から選びなさい。(1)~(10)

(1)長岡京遷都の推進者であった藤原種継の暗殺事件に連座して亡くなり、鎮魂のために上御霊神社、下御霊神社などに祀られた人物は誰か。

(ア)他戸親王(イ)早良親王

(ウ)伊予親王(エ)葛原親王

解説

造長岡宮使だった藤原種継は延暦4年(785)9月、長岡で暗殺された。桓武天皇は平城に行幸しており、種継は留守司に任じられて長岡にとどまっていた。種継殺害の犯人として大伴継人と大伴的良、その与党数十人が逮捕され、尋問を受けて有罪とされ、処罰された。彼らの自供によると、大伴家持(当時すでに故人)が大伴氏らに種継殺害を持ちかけ、皇太子の早良親王の了解を得て殺害を決行したとの大筋が確認された。

早良親王は乙訓寺に幽閉され、さらに淡路に流罪にされるが、途中で死んだ。乙訓寺幽閉のうちから絶食していたと推定される。親王の屍は淡路に送られ、埋葬された。

早良親王の後の皇太子として、桓武天皇の皇子の安殿親王が立太子した。

桓武天皇の身辺に次々と凶事が起こった。早良親王の怨霊の祟りだとの卜占があり、延暦19年(800)に崇道天皇の尊号が早良親王に追贈され、上下の御霊神社の祭神となった。

他戸親王は光仁天皇の皇子、皇太子。宝亀3年(71) 母の井上内親王の呪詛の罪に連座して皇太子を廃されやがて没した。伊予親王は桓武天皇の皇子で、母は藤原吉子。謀反容疑で母とともに幽閉され、自害した。のちに無罪と判定され、号位を回復された。葛原親王は桓武天皇の皇子、桓武平氏の祖。

(1)解答・・・(イ)早良親王

 

 

 

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(2)平安京の中央から都城南端の正門である羅城門から大内裏へまっすぐ南北に通じる朱雀大路が敷設されていたが、これは現在のどの通りにあたるか。

(ア)大宮通(イ)烏丸通

(ウ)千本通(エ)室町通

解説

羅城門から大内裏の正門の朱雀門まで、真っすぐに通じていた朱雀大路は、現在の千本通に相当する。大路の両側には柳の木が植えてあり、柳を管理する4人の役人が任命されていた。

朱雀大路は朱雀門で終わるから、朱雀門のある二条大路から北に朱雀大路は通じてはいなかった。二条大路から北に通じたのは承久年間(1219~22)だという記録がある。早くもこのころには大内裏一帯は荒廃し、朱雀大路の北への延伸が可能だった状況が分かる。大内裏の東西の端を南北に貫く通りが大宮大路である。正しくは大宮大路と西大宮大路で、大宮大路は現在の大宮通、西大宮大路についてはよく分からないが、天神川(紙屋川)の東の位置に相当するのではないかと推定される。烏丸通は平安京の烏丸小路に相当する。応仁・文明の乱の後、四条から南は荒れてしまったが、豊臣秀吉の京都市街改造事業によって往年の繁栄を取り戻したようだ。七条は幕末になっても市街化せず、東塩小路村と呼ばれた。明治10年(1877)、東海道線の京都駅が出来てからにぎやかになった。

室町通は平安京の室町小路に相当する。応仁・文明の乱で四条から南は荒廃し、復興は豊臣秀吉の市街改造事業を待たねばならなかった。永和3年(1377)、室町幕府の三足利義満は、室町小路と北小路の東北に「花の御所」を造営した。「室町時代」の始まりである。

(2)解答・・・(ウ)千本通

 

 

 

 

 

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

火災でたびたの邸宅を借用

(3)平安京の天皇の居所である内裏は、火災でたびたび焼失し、再建までの間、一時的に公家の邸宅を借用した。これを何というか。

(ア)里内裏(イ)仮内裏

(ウ)大内裏(エ)町内裏

解説

貞元元年(976)5月に内裏が焼失した。円融天皇はほぼ1年間にわたって、藤原兼通(太政大臣・関白)の堀河院に住んだ。

堀河院は二条の南、堀川の東の南北2町を占めていた屋敷で、太政大臣の藤原基経が建て、基経から忠平、師舗を経て兼通に伝えられたもので、堀河殿とも呼ばれ、創建者の基経には「堀河太政大臣」、兼通には「堀河大臣」の異称があった。

兼通の堀河院が仮の内裏になった要因は、兼通が太政大臣・関白の重職にあったほか、兼通の娘の煌子が中宮だったことによる。ちなみに、円融天皇の母は師輔の娘だった。

円融天皇が堀河院に移ったのを、『栄花物語』は「行幸」と表現し、さらに、仮の内裏となった堀河院を世間は「今内裏と呼んだ」と述べている。

この堀河院が最初の仮の内裏であり、やがて仮の内裏で表現する言葉として「里内裏」が定着する。宮中に仕える人が、宮中に対して自分の実家をいうときに「里」といった。妻や養子、奉公人の場合も同様である。平安京の内裏と官庁区を合わせたゾーンを大内裏という。

大内裏の中に内裏(皇居)がある。

いうの

(3)解答・・・(7)里内裏

 

 

 

 

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(4)唐で声明を学び、大原に勝林院、来迎院の前身となる天台声明の道場を創建したと伝えられる平安時代の僧は誰か。

(ア)円仁(イ)円珍

(ウ)最澄(エ)良源

解説

声明は仏教とともに日本に伝来され、梵語讃や漢語讃、和語讃が各宗各派でまとめられた。中心は天台と真言の声明である。唐の天台山から天台声明を伝え、大成したのは円仁(慈覚大師)である。

円仁は延暦寺の最澄に学んだあと入唐し、在唐10年、承和14年(847)に帰国、斉衡元年(854)に天台座主となって文徳天皇や清和天皇に菩薩戒を授けた。やがて、円仁は洛北の大原に天台声明の根本道場の2寺を創建する。これが後に勝林院と来迎院となる。勝林院も来迎院も魚山と号するのは、天台声明の聖地とされる中国の山東省の魚山にちなんだものである。

円珍(智証大師)は延暦寺の初代天台座主・義真に学んだあと入唐し、帰国して天台座主となる。その後、円珍の門徒は円仁の系統(山門派)と対立し、園城寺に依拠して寺門派を興す。

良源は円仁の法脈を継承し、円仁の遺跡の比叡山横川の残厳院を再興した。天台座主。元三大師。

(4)解答・・・(ア)円仁

 

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(5)平安時代中期、市井で念仏を広め、六波羅密寺の前身である西光寺を開いた空也の通称はどれか。

(ア)阿弥陀聖(イ)皮聖

(ウ)町聖(エ)弥勒聖

解説

いかなる宗派にも属さず、権力に従わず、深山幽谷で修行し、説経する宗教者を聖-聖人-と呼んだ。多数を相手に説経するのが効果的だから、聖人はもっぱら市井で活躍する。そこで、「市聖」という言葉が生まれた。権力を背景とする既成組織の宗教者から危険人物視され、迫害されることが多かったが、屈しないのが民衆に歓迎されたゆえんだ。

空也上人は、正に「市聖」「市の上人」「阿弥陀聖」と尊称されるべき宗教者だった。出身は不詳。尾張の寺で得度し、空也と自称した。入京したのは天慶元年(938)といわれ、市中で説経して阿弥陀念仏を勧めた。

空也の勧める念仏行は、鉢叩き(鉢敲)念仏と呼ばれる。蛸薬師通堀川東の空也堂は、空也の念仏の道場として建てられた。また空也は鴨川の東、清水寺参詣道の傍らに一寺を興し、西光寺と名付けた。これが六波羅密寺の始まりである。六波羅蜜寺の空也上人立像は、鉢叩き念仏を勧める 空也の姿を彷彿させる。

寺町通丸太町下ルの行願寺=写真=を興したといわれる行円は市中を遊行し、もっぱら民衆相手に自説を説いた。行円は常に鹿皮の衣を着ていたので「革聖(皮聖・皮仙)」と尊称され、彼が創建した行願寺は「革堂」と呼ばれる。

(5)解答・・・(ア)阿弥陀聖

 

 

 

 

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(6)藤原道長が自邸である土御門殿の東に建立した寺院の通称「御堂関白」の由来ともなった寺院はどこか。

(ア)法界寺(イ)法観寺

(ウ)法成寺(エ)法性寺

解説

藤原氏の権勢を頂点に押し上げたのが道長である。一条天皇のときに内覧(摂政関白準ずる職)の宣旨を与えられ、ライバルだった甥・伊周を退けた。長女の彰子を一条天皇の中宮とした。

一条天皇と彰子の間に敦成親王(後一条天皇)、敦良親王(後朱雀天皇)が生まれた。道長は敦成親王に娘の威子を敢良親王にも娘の嬉子を入内させ、数代にわたる外戚の地位を固めた。「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」の歌には、最高権力者道長の感既が込められている。

晩年、病気がちの道長は寛仁3年(1019)に出家、東京極大路の西に土御門殿、東に法成寺を建てた。阿弥陀堂は無量寿院と名付けられた。不老長寿を阿弥陀に願う道長の悲痛な思いが込められての命名だが、願いはかなわず、阿弥陀仏の手につないだ五色の糸を握って浄土往生を祈りつつ、息絶えた。法成寺の跡地に、京都府立鴨沂高校が建てられている。

法界寺は伏見区日野にある。薬師如来を本尊とし、「日野薬師」として親しまれている。

法観寺寺は東山区の八坂通にあり、「八坂の塔」として親しまれている。

法性寺は東山区の本町通にあり、本尊の千手観音立像は国宝に指定されている。

は指定されている。洛陽三十三所観音の一つ。

(6)解答・・・(ウ)法成寺

 

 

 

 

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(7)平安後期、白河上皇が院御所の護衛のために設置し、平正盛・忠盛親子も属していた上皇の親衛隊を何というか。

(ア)東面武士(イ)西面武士

(ウ)南面武士(エ)北面武士

解説

天皇ではなく、上皇(法皇)が皇室の事実上の主となって政治を運営する体制を院政という。天皇から政務が移譲されるわけでもなく、上自が天皇の代行となるわけでもない。あくまでも上皇個人が専制的に政権を運営する。院政を行う上皇を「治天の君」と呼ぶところに、院政の病的な性質が示唆されている。

最初に院政を行ったのは、白河上皇である。15年間の天皇在位の後、応徳3年(1086)に堀河天皇に譲位して院政が始まり、堀河・鳥羽・崇徳の三代、43年の長期に及んだ。

白河上皇というと鳥羽の離宮が連想されるが、これはあくまで離宮であって、院御所(院庁)ではない。六条院(六条内裏)が院御所の機能を果たしていた。

院政をする上皇を警固する役目が新しく生まれ、もっぱら源平二氏から登用されて、「北面武士」と呼ばれた。「院の北面」という言い方もある。

中国には「天子南面」という思想があった。天子たる有は南面して政務を執るべきもの、という考え方だ。南面する天子の背後を警固するため武士は北面する。そこで「北面武士」の言葉が生まれた。

後鳥羽上皇の院政では「北面武士」の威勢は後感。「西面武士」が任命されて鎌倉幕府に対抗した。

(7)解答・・・(エ)北面武士

 

 

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(8)後白河上皇が、法住寺殿の鎮守として創建し、足利義満が、観阿弥・世阿弥父子の能を

初めて見たという神社はどこか。

(ア)能野若王子神社(イ)新熊野神社

(ウ)新日吉神宮(エ)熊野神社

解説

後白河天皇の在位は4年の短期で終わり、上皇として二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽34年にわたる長期の院政を行った。

鴨東南部に法住寺の跡地があったが、永暦2年(1161)、上皇はここに院御所の法住寺殿を建てて移った。法住寺殿仏殿として建てられたのが、三十三間堂の通称で有名な蓮華王院である。蓮華王院は平清盛が寄進した。

さらに上皇は、熊野権現と日吉山王を勧請し、法住寺殿の鎮守とした。熊野権現を勧請した社が新熊野神社、日吉山王を勧請した社が新日吉神宮(神社)である。

新熊野神社が勧請された地は現在地と変わらないが、当初の社域は現在の数倍の広さだったと推測されている。応安7・文中3年(1374)、新熊野神社境内で行われた観阿弥と世阿弥の演能を室町幕府三代将軍の義満が見物し(永和元年との説も)、世阿弥の能を激賞したことが、観世座の発展を決定づけたといわれる。

新日吉神社は当初、現在地より南の今熊野瓦坂にあったといわれ、その後、智積院の北に移り、明治30年代に現在地へ移ったとされる。

熊野若王子神社は左京区の若王子町にあり、後白河上皇の勧進によるとも請したともいわれる。熊野神社(左京区)は聖護院山王町り、白河上皇の勧請とする説がある。

(8)解答・・・(イ)新熊野神社

 

 

 

 

 

 

1平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(9)平家打倒の陰謀を企てた僧・俊寛の山荘があったのはどこか。

(ア)一乗寺(イ)御室

(ウ)鳥羽(エ)鹿ケ谷

解説

平家打倒計画の中心人物は藤原成親だといわれる。成親は右大将への昇進を望んでいたが、平清盛の子の宗盛に先を越されてしまい、恨みがあった。

もう一人の主役は西光(藤原師光)である。成親とは差兄弟で、後白河上皇の側近第一。頼りとする信西(藤原通憲)を平治の乱で失った恨みがある。

上皇の近臣のうちには、平家の権勢に恨みを抱く者が少なくなかった。成親と西光を中心にして、芸能の会を口実に集まり、平家打倒の策を練っていたといわれるのが鹿ヶ谷の俊寛の山荘だった。俊寛は法勝寺の執行である。

俊寛の山荘について『平家物語』は「うしろは三井寺につづき、ゆゆしき城郭だったと述べている。僧侶のくせに城郭構えの山荘に住んでいたからには、平家打倒という恐ろしい野望を抱くのは当然一そういわんばかりだ。真相はどうだったか、安易に言えるものではないが。鹿ヶ谷の霊鑑寺の南東に「此奥俊寛山荘地」の碑があり、さらに東の如意寺の楼門の滝の上に「俊寛僧都忠誠之碑」がある。

一乗寺や修学院の辺りは、西坂本といわれていた。現谷の陰謀が暴露される直前、平清盛は、後白河上皇から暦寺討伐の命を受けていた。延暦寺の僧兵は西坂本まで降りて平家との開戦に備えていたが、鹿ヶ谷の一味従党が逮捕されたと聞くと、清盛と上皇の反目を察知し、比叡山に戻っていった。

(9)解答・・・(エ)鹿ケ谷

 

 

 

 

 

平安時代に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(10)賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)では平安京遷都以来、「斎院(斎王)」の制度が設けられていたが、この制度を創設した天皇は誰か。

(ア)桓武天皇(イ)平城天皇

(ウ)嵯峨天皇(エ)淳和天皇

解説

斎院(斎王)とは、国の平安を願い賀茂大神に奉仕した未婚の皇女をいう。

斎院の制度を創設したのは嵯峨天皇だった。長岡京から平安京への遷都を敢行した桓武天皇や、次の平城天皇の代は、平城に都を戻そうとする勢力との争いに明け暮れていた。平安京三代目の嵯峨天皇は兄の平城上皇との争いに勝利を収め(薬子の変)、以後、嵯峨天皇は国の平安を願い斎院の制度を創設した。『延喜式』斎院司などによれば「賀茂大神斎王」は伊勢の斎宮に準じ内親王の中からト定されている。

初代の斎王は嵯峨天皇の皇女・有智子内親王だった。後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王まで、三十五代の斎王が任命されたと記録されている。

賀茂斎王の職名を賀茂斎院というが、本来は斎王の居所同院である。上京区紫野の七野神社一帯にあったことかり、紫野斎院と呼ぶこともある。

淳和天皇の離宮が紫野院と呼ばれていたことは判明している。やがて雲林亭と改称され、後に雲林院という寺院になった。

(10)解答・・・(ウ)嵯峨天皇

 

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 

2世界遺産に関する記述について、最も適当なものを(ア)~(エ)から選びなさい。(11)~(20)

(11)世界遺産「古都京都の文化財」に登録されている寺社等は、文化財保護法に基づく国宝建造物もしくは特別名勝の庭園があるものに限られているが、国空造物がある寺院はどこか。

(ア)西芳寺(イ)慈照寺

(ウ)天龍寺(エ)鹿苑寺

解説

平成6年(1994)12月、京都の文化圏の17の社寺城文化財が世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録された。

西芳寺は西京区松尾にあり、苔寺の名で知られる。臨済宗の単立寺院、本尊は阿弥陀如来。聖徳太子の別荘から始まるという伝承がある。『夢窓国師年譜』では、奈良時代の僧の行基が聖武天皇の勅願によって創建した畿内の49院の一つ、「西方寺」が始まりだとされている。史跡・特別名勝に指定されている夢窓疎石の指揮による庭園は、今では一面が苔に覆われ、ここから苔寺の名が生まれた。

慈照寺(銀閣寺)は左京区の銀閣寺町にある。室町幕府八代将軍の足利義政の山荘の東山殿が義政の死後に寺院になり、義政の法名にちなんで慈照寺と名付けられた。東求堂(持仏堂)、銀閣(観音殿)が国宝に指定されている。庭園は特別史跡・特別名勝に指定されている。こ天龍寺は右京区の嵯峨にあり、後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が創建した。臨済宗天龍寺派大本山。カメ裏の庭園が史跡・特別名勝に指定されている。

鹿苑寺は北区の金閣寺町にあり、臨済宗相国寺派。幕府三代将軍の足利義満の政庁の北山殿が、義満の死後に禅寺となった。舎利殿の金閣にちなんで金閣寺といいが生まれた。庭園は特別史跡・特別名勝に指定されている。

(11)解答・・・(イ)慈照寺

 

 

 

 

 

 

2世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(12)元は遠藤盛造という武士で、東寺の再興に尽力した僧侶は誰か。

(ア)玄宥(イ)勝覚

(ウ)文覚(エ)道昌

解説

遠藤盛遠は上西門院に仕える武士だった。上西門院は鳥羽天皇の皇女、後白河上皇の画本『平家物語』によれば、盛遠は同僚の准母である。延の現裟御前に恋したが、間違って袈裟を殺してしまう。

盛遠は出家し、激しい修行をして文覚と名乗り、高雄の油載寺の再興事業を発心、後白河上皇の援助を得ようとしたが、上皇の怒りに触れて伊豆に流罪にされる。そこで流人の源頼朝に会い、平家打倒を決意させる。頼朝は平家打倒に成功し、上皇の信頼を回復した文覚は上皇と頼朝の保護により神護寺を再興した。「文覚は空海を尊敬していた。空海が住持した東寺が荒廃していたのを嘆き、上皇に訴えて東寺再興事業に資金援助を求めた。上皇の知行国の播磨国が財源に充てられ、東寺伊興は成功した。将軍になった頼朝が、東寺再興を上皇に対する追善事業と考えたのも文覚にとって有利だった。

玄宥は紀州の根来山にいた智積院の僧である。豊臣秀吉だき討ちされた根来寺の再興を願った。後に、徳川家康京都に再興し、智積院とした。

勝覚は醍醐寺の坐王、東寺の長者や東大寺の別当を務め勝寺の三宝院(さんぽういんとも)を創建。

道昌は真言宗の僧。神護寺で空海に学び、広隆寺の別当になった。

(12)解答・・・(ウ)文覚

 

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 

12世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(13)仁和寺の通称「御室」は、創建した天皇がのちに出家し、寺内に自らの御室(僧房)を建立したことに由来するといわれるが、その天皇は誰か。

(ア)嵯峨天皇(イ)宇多天皇

(ウ)醍醐天皇(エ)白河天皇

解説

仁和寺は、右京区の御室にある真言宗御室派の総本山。山号は大内山、本尊は阿弥 陀三尊。光孝天皇が仁和2年(886)に伽藍建立を発願して工事が始まったが、天皇は翌年に没し、後を継いだ宇多天皇が完成させた。落慶供養の導師を務めた真然は、空海の弟子である。本尊阿弥陀三尊は、光孝天皇の等身の如来といわれる。

宇多天皇は寛平9年(897)、皇子の敦仁親王(醍醐天皇)に政治の心得『寛平御遺誡」を出して譲位し、昌泰2年(899)に仁和寺で出家して仁和寺の第一世、最初の法皇となった。「寛平法皇」と記されることもある。仁和寺は最初の門跡寺院となった。

宇多法皇は、仁和寺の金堂の南に室(僧坊)を建てて政務所とした。これが御室と尊称され、この辺り一帯の地名となった。

嵯峨天皇は桓武天皇の皇子、平城天皇の弟。嵯峨天皇の多くの皇子は臣籍に降下し、嵯峨源氏の一流をつくった。醍醐天皇は宇多天皇の皇子、村上天皇の父。醍醐天皇のときに、右大臣菅原道真が失脚して大宰府に左遷されるす件が起こった。

白河天皇は後三条天皇の皇子、堀河天皇の父。上皇として強大な権力を築き、院政を開始した。延暦寺と対抗しい白川(左京区岡崎)に法勝寺をはじめとする巨大な6寺を創建した。

(13)解答・・・(イ)宇多天星

 

 

 

 

 

世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(14)現世に極楽名土を再現し、「極楽いぶかしくば宇治の御寺をいやまえ」ともいわれた平等院の本尊はどれか。

(ア)阿弥陀如来(イ)釈迦如来

(ウ)阿閣如来(エ)薬師如来

解説

平等院は宇治橋の上流、宇治川左岸にある。この地には昔、左大臣の源融の別荘の宇治院があった。融は宇治院のほかに嵯峨の棲霞観や鴨川右岸の河原院などを持ち、「河原左大臣」と称された。

融の宇治院は源重信の未亡人を経て、長徳年間(995~ 200)に藤原道長の所有になった。道長から息子・頼通に筆渡されたが、そのときに宇治院から宇治殿に名が変わったようだ。頼通も宇治殿と呼ばれていた。

頼通が宇治殿を仏殿に改め、平等院としたのは永承7年 (1052)である。この年が末法の初年とされていたのが、頼通が仏殿建立を決意した理由だったのだろうか。このときの記録では、中尊は東向きの大日如来とされている。翌年の天喜元年(1053)に阿弥陀堂が建てられ、2月19日に、丈六の阿弥陀如来坐像が京の仏所から運ばれ、阿弥陀堂に安置された(『定家朝臣記』)。阿弥陀如来坐像を造ったのは、京の仏師の定朝である。

158大日如来を安置した本堂(大日堂)が失われた後は、阿弥陀堂が伽藍の中心になった。頼通の後、師実・忠実と続藤原氏によって伽藍の増築が続けられ、法華堂・多宝五大堂・経蔵・不動堂・護摩堂などが姿を現した。

その後は、阿弥陀堂は鳳凰堂と呼ばれる。阿弥陀仏を納めた中堂の屋根にの屋根に鳳凰が飾られているから、あるいは、翼を広げた形に似ているからといわれる。10円硬貨のデザインとしても有名。

(14)解答・・・(ア)阿弥陀如来

 

 

 

 

 

2世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(15)足利尊氏は、後醍醐天皇の追善のために天龍寺を開創したが、その造営費用調達のため、天龍寺航を就航させ貿易を行った相手国はどこか。

(ア)元(イ)高麗

(ウ)安南(エ)呂宋

解説

後醍醐天皇が暦応2年(1339)に没したとき、夢窓疎石は足利尊氏に対し、天皇の冥福を祈る菩提寺を建立すべきだと進言した。

尊氏は天龍寺の造営を決意し、周防と安芸の公領からの収入を造営費用に充て、不足分を元との貿易利潤によって補う財政計画を定めた。博多商人の至本を綱司として貿易の管理一切をゆだね、利潤の有無にかかわらず、銭五千貫を天龍寺造営費用として納入させるという計画である。正式には「天龍寺造営料唐船」、通称「天龍寺船」の計画がこうして決定された。

鎌倉幕府と元朝の交渉は元寇の戦乱の間は途絶したが、交易は続いていた。フビライの没後、鎌倉幕府は勝長寿院、建長寺、関東大仏造営料唐船を派遣した。足利尊氏の財政担当官は鎌倉幕府の実績を参考にして、元との間に貿易を始めるのは可能だと判断したと推測される。

高麗は朝鮮半島に918年に成立し、1392年に滅亡した王朝である。

ベトナムを征服した唐は、ここに安南都護府を設置した。安南とはそれに基づく地名、国名である。日本もベトナムを安南国と呼んだ時期がある。

呂宋はルソン島、つまりフィリピンである。16世紀か。日本商人による貿易が盛んになった。

(15)解答・・・(ア)元

 

 

 

 

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

2世界遺産ついて、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(16)足利義満の山荘(後の鹿苑寺)に代表され、伝統的な公家文化と新興の武家文化の融合が特徴とされる文化の名称はどれか。

(ア)北山文化(イ)東山文化

(ウ)天文文化(エ)桃山文化

解説

14世紀後半から15世紀前半にかけて展開された文芸や美術、宗教や風俗の特徴を指って北山文化と総称する。室町幕府三代将軍義満の山荘・北山殿にちなんだ呼称である。

北山文化の基礎は禅宗である。詩作に没頭する禅僧が輩出して、やがて五山文学といわれる分野が定着した。禅宗寺院の装飾から絵画が美術の一部門として独立し、如拙や周文などの画僧が登場してきた。禅宗寺院の庭園からは枯山水の形式が生まれた。

禅宗寺院の日常行儀の一つの茶礼が武家の暮らしに採り入れられて書院茶湯となり、仏前供花から始まった立花と互いに影響を及ぼしあった。造園や茶湯、立花や美術品の死、室内装飾などの分野では、将軍に仕える同朋衆と呼ばれる専門家が誕生した。新しい文化には存在基盤の脆弱という宿命が避けられないが、この時期には武士が新しい文化を保護して成長を助ける傾向が顕著だった。義満が新熊野神社で観阿弥と世能を鑑賞して激賞し、世阿弥を贔屓した。これが能楽発展に与えた影響は計りしれない。

八代将軍の足利義政の東山殿で展開される文化を東山文化といい、豊臣秀吉によって伏見城を中心に展開される文化を桃山文化という。

(16)解答・・・(ア)北山文化

 

 

 

 

 

 

12世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(17)禅宗を篤く信仰し、妙心寺の義天玄承を招いて、龍安寺を創建した武将は誰か。

(ア)足利義政(イ)細川勝元

(ウ)山名宗全(エ)畠山政長

解説

足利義政は室町幕府の八代将軍である。応仁・文明の乱が終わった後、東山・旅寺の跡地に山荘・東山殿を造営した。義政の死後、運命によって山荘は寺になり、慈照院と名付けられた。のちの慈照寺である。

細川勝元は摂津・讃岐・丹波・土佐の4国の守護だった文安2年(1445)を最初として、3度にわたって室町幕府の管領に就任した。妻の父の山名宗全と提携していたが、やがて宗全と対立し、応仁・文明の乱が勃発する。

大乱勃発の前、宝徳2年(1450)に勝元は仁和寺の北東にあった堂上公家の徳大寺家の敷地を譲り受け、龍安寺を建立した。

この地には古く、円融天皇の御願で建てられた円融寺があった。円融寺は円教寺・円乗寺・円宗寺とともに、四円寺の一寺である。龍安寺に現存する鏡容池は、円融寺の苑池だといわれている。円融寺が衰えた後、左大臣の藤原(徳大寺)実能が譲り受けて山荘を造営し、その中に徳大寺を建立した。勝元はこの徳大寺を譲り受け、妙心寺の我」天玄承(詔)を招いて禅の寺とした。義天は師の日峰示を勧請開山とし、自らは創建開山となった。

山名宗全は持豊といい、細川勝元と対立して応仁・文明の乱を起こし、陣中で没した。宗全の陣地の西陣が、被の町の西陣の名になった。畠山政長は室町幕府の管領、川勝元の味方として応仁・文明の乱を戦った。

(17)解答・・・(イ)細川勝元

 

 

 

 

 

 

 

2世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(18)宇治上神社に湧き出ている宇治七名水の一つは何か。

(ア)御香水(イ)延命水

(ウ)善気水(エ)桐原水

解説

御香水は、伏見の御香宮神社の境内に湧き出す香水の名である。貞観4年(862)9爪水が湧き出し、病人が飲用したところ、たちまち平癒した。清和天皇が勅錠を発し、社殿を建てさせたのが、宮神社の始まりだといわれている。「伏見の御香水」いて環境省の「日本の名水百選」に登録されている。清水寺の音羽の滝は金色延命水と呼ばれる。「清水寺縁紀」によると奈良の僧侶・賢心(のちの延鎮上人)が観音様のお告げで霊水を求めて、山城の国にさしかかったとき、金色に輝く音羽の滝に出合ったのが起源である。左京区鹿ヶ谷の法然院の方丈庭園には洛中名水の一つ、善気水が湧き出ている。忍徴上人が錫杖で探しあてたとも伝えられ、別名錫杖水と呼ばれている。宇治上神社は宇治橋の東方、仏徳山の麓にある。明治維新までは離宮上社と呼ばれ、隣接する宇治神社の下離宮と一体の神社として宇治離宮明神と呼ばれていた。分離したのは、明治維新の後からである。

離宮の名の由来は、応神天皇の皇太子の菟道稚郎子の離客だったという桐原日桁宮の旧跡と伝えられていることにある。宇治上神社の境内に、桐原水=写真=が湧き出している。

(18)解答・・・(エ)桐原水

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 

 

 

2世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(19)「苔寺」で知られる西芳寺の庭園を造った憎侶は誰か。

(ア)関山慧玄(イ)春屋妙葩

(ウ)夢窓疎石(エ)宗峰妙超

解説

関山慧玄は臨済宗の僧、信濃の出身。鎌倉の建長寺で東伝士啓について得度し、次に南浦紹明について恵眼と名付けられた。やがて上洛し大徳寺の宗峰妙超から関山の号と慧玄の諱を受けた。美濃に隠退したが、暦応5年(1342)に花園天皇に招じられ妙心寺の開山となった。後奈良天皇から「本有円成」の国師号を受けた。

春屋妙苑は臨済宗の僧、甲斐の出身。夢窓疎石に学び、天龍寺・南禅寺などの住持を務め、丹後の雲門寺に住持したが、足利義満に迎えられて上京、「天下僧録司」に任ぜられ、全国の禅寺・禅僧を統括した。

夢窓疎石は臨済宗の僧、伊勢の出身。甲斐の平塩山寺の空阿に学び、奈良の東大寺で受戒したが、禅に転じて鎌倉に行き、建長寺の一山一寧に師事、高峰顕日の門に入って顕日の法を継いだ。

諸国を歴住していたが、正中2年(1325)に上洛して南禅寺の九世になった。このとき、夢窓国師と特賜された。暦応2年・延元4年(1339)に後醍醐天皇が吉野で亡くなると、足利尊氏と直義に対し、菩提を弔うための禅林創建を進言し、暦応資聖禅寺を建立。天龍寺である。造園設前に優れ、暦応2年(1339)に西方寺を改めて西芳寺とし、西芳寺庭園を設計、築造した。

宗峰妙超は臨済宗の僧、播磨の出身。鎌倉建長寺の南那紹明に学び、京都に大徳寺を創建した。

(19)解答・・・(ウ)夢窓疎石

 

 

 

 

 

 

2世界遺産に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(20)下鴨神社は、平安時代から伊勢神宮と同様に、一大船を造替する式年遷宮が行われてきたが、現在の本殿は、いつの造替時のものか。

定年限で本殿を持現在の本殿は、

(ア)寛永6年(1629)(イ)宝暦10年(1760)

(ウ)弘化4年(1847)(エ)文久3年(1863)

解説

下鴨神社は左京区の下鴨泉川町にあり、この地に平安遷都以前から住んでいた賀茂の氏神である。正式には賀茂御祖神社という。祭神は賀港建角身命・玉依媛命。北区の上賀茂にある上賀茂神社と公わせて総称する場合には賀茂社という。

下鴨神社の社殿は天武天皇6年(678)に造営されたと伝わる。本殿は、玉依媛命を祀る東殿と賀茂建角身命を祀る西殿から成っている。下鴨神社では、式年遷宮の制度が 定例となってきた。長元9年(1036)に式年遷宮の制が宣旨によって定められ、天喜4年(1056)の第1回式年遷宮以降、ほぼ20年ごとに本殿以下すべての社殿が造替されてきた。しかし、戦乱や経済的変動といった事情により遅延することとなった。明治35年(1902)に社殿が文化財に指定されてからは、替えができなくなった。このため式年遷宮は屋根の葺き替えや漆の塗り替えなど社殿の補修が中心となる。現在は文久3年(1863)の式年遷宮で造替されたものである。

現在は33回目の式年遷宮の最中で、境内の74棟の社殿が約20年がかりで順に補修されている。

(20)解答・・・(エ)文久3年(1863)

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP