(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。(1)~(10)

(1)太秦という地名は、秦氏がある産物をうずたかく積んで、天皇に献上したことにちなむ地名と伝えられるが、その産物とは何か。

(ア)塩(イ)絹

(ウ)米(エ)綿

解説

古代の氏族を「皇別」「神別」「諸定雑姓」の「三体」に分類したのが『新撰姓氏録』である。漢・百済・高句麗・新羅・任部を出自とする氏族を「諸蕃」といい、秦氏は諸番の一氏族だった。「日本書紀』に、応神天皇の代に秦氏の祖の弓月君が朝鮮半島から渡来したと述べられている。

「日本書紀」雄略天皇15年の条に、次の伝承が記述されている。秦の民は四方に分散しており、秦酒公の思うままに支配できなかった。酒公をちょう愛していた雄略天皇は詔を発して、秦の民を集めて酒公に与えた。酒会は百八十種の勝(村主)を率いて絹絲(絹織物の一種)を献納品として朝庭にうず高く積み上げた。天皇は酒公に「萬豆麻佐」の姓を与えた。姓の「ウズマサ」が、地名「太秦」の起源につながったのだと考えられているが、経緯は諸説ある。

雄略天皇16年の条には、桑の栽培に適している国県を選んで桑を栽培させ、秦の民を分散させて庸調を献納させたと述べられている。秦氏の養蚕、製糸の技術が他氏にて優れていたことを示すものだろう。

秦伊呂具には、餅を的にして矢を射たら、鮮が日語になって山の峰にとまり、そこにイネが生えたので、社(伏見稲荷大社)を建てたという「イネナリーイナリー」の伝承がある。

(1)解答・・・(イ)絹

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(2)平安京は「四神相応」の地で、北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎の四神が四方を守る最良の地勢とされたが、南の朱雀の地形上のシンボルはどれか。

(ア)大岩(イ)大道

(ウ)大川(エ)大池

解説

四神相応は四地相応ともいい、官位・無病・長寿を併有する地相とされる。もともとは中国の思想だったが、日本では宮都にふさわしい土地を選定するときの基準として尊重されてきた。

東に青竜、西に白虎、南に朱雀、北に玄武の四神を配し、青竜−流水(大川)、白虎−大道、朱雀−袴池(大池)、玄武−丘陵(大岩)というように、それぞれに特定の地形を当てはめる。

平安京の前の長岡京でも、四神相応は尊重されたと考えられている。東の青竜一流水は桂川、西の白虎−大道は丹波路、南の朱雀−袴池は巨椋池、北の玄武−丘陵は北山・丹波高原である。

桓武天皇は延暦12年(793)正月に藤原小黒麻呂、紀古佐美らを山背(城)国の葛野に派遣して地を相させた。天皇は内心すでに葛野への遷都を決意していたに違いないが、小黒麻呂や古佐美が地相を判じた結果が「四神相応」だとの報告を受けて具体的に決断を下した。

平安京の「四神相応」は次のようだったと考えられる。東の青竜一流水は賀茂川、西の白虎一大道は山陰道、北の玄武一丘陵は船岡山、そして南の朱雀一彦池は巨椋池だったのだろう。

(2)解答・・・(エ)大池

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい、

(3)承久の乱後、鎌倉幕府が朝廷の監視が両国支配のために、京都に設置した役所はどれか。

(ア)京都所司代(イ)検非違使庁

(ウ)刑部省(エ)六波羅探題

解説

承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を打倒する戦争を始めたが、鎌倉から京都に攻め上ってきた幕府の大軍は、わずか2日間の戦で上皇方の軍勢を打ち破り、北条泰時と時房は六波羅飴に入って全軍の指令所とした。ここが間もなく、六波羅探題として朝廷と西国ににらみを利かせる権力機関となる。「探題」と呼ばれるのは後のことであり、当初は「六波羅北方(北殿)」「南方(南殿)」と呼ばれていた。

この六波羅館は、もともとは平家が造営して全盛期の拠点とした宿舎群だが、源頼朝は平家の宿舎群の北に朝廷から土地を与えられ、「六波羅新御亭」と称していた。平家だけではなく、源氏にとっても縁の深い地だった。頼朝の新御亭が北方、もともとの平家の六波羅邸が南方になったらしい。

京都所司代は朝廷と西国大名の監視を目的とする徳川幕府の役所であり、初代の所司代は板倉勝重とされる。役宅は二条城の北に置かれた。

検非違使は9世紀の初めに設置された治安維持、訴訟裁判を担当する朝廷の官である。検非違使の役所を検非違使庁、略して使庁と呼んだ。

刑部省は大宝元年(701)の律令で設置された八省の一つ。訴訟と裁判、刑罰執行を行う役所である。刑部省は明治2年(1869)に同じく中央司法機関として復活したが、4年(1871)に司法省設置に伴い廃止された。

(3)解答・・・(エ)六波羅探題

 

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(4)室町時代に、「洛中二十一ヵ寺本山」と呼ばれる寺院群を市中に建立して信仰を集めた宗派はどれか。

(ア)一向宗(イ)真言宗

(ウ)法華宗(4)天台宗

解説

四つの選択肢のうちで一番古いのは天台宗である。最澄は延暦23年(804)に入唐し、翌年に帰国して比叡山に天台宗を開いた。研学と布教の拠点はもっぱら比叡山上に置かれ、洛中に多数の本山を構えたことはない。

空海は最澄と同時に入唐し、真言密教の正系を継承して大同元年(806)に帰国、弘仁元年(809)に高雄山寺(神護寺)で、最初の鎮護国家の修法を行った。これが真言宗の発足とされる。高野山の金剛峯寺と平安京の東寺を二大拠点とし、空海の後では醍醐寺や勧修寺泉涌寺、仁和寺など巨大伽藍を京都に建てたが、洛中に21もの本山を建てたことはない。

法然の弟子・親鸞が開いた浄土教系統の宗派を総称して浄土真宗といい、真宗または一向宗ということもある。親愛の墓所の留守職として始まった本願寺(東西の本願寺)をはじめ、市中や山科に多数の寺院が建てられたが、室町 時代には京都では衰退していた。

日蓮の弟子の日像が13世紀末に京都で布教を決行して法華宗(日蓮宗)を広めた。複数の系統が競って本山を建て、室町時代には洛中に合わせて21もの本山を数える盛況にいたった。新興の商人層を布教の対象としたから、本山寺院は市中に建てられたのである。天文5年(1536)、延暦寺に攻められて敗れ、和泉の堺に避難したこともあった。

(4)解答・・・(ウ)法華宗

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア) ~(エ)から選びなさい。

臣秀吉が、平安京の内裏跡

(5)天正15年(1587)、豊臣秀吉が、平安である内野に築造した居館の名称はどれか。

(ア)伏見城(イ)聚楽第(ウ)二条城(エ)淀城

解説

本能寺の変の後、淀城は明智光秀に接収された。山崎の戦で光秀を破った秀吉は荒城を手に入れ、愛妾茶々(淀殿)の産所とした。茶々が淀城で鶴松を産んだのは天正17年(1589)である。一鶴松と茶々が大坂城へ移った後は淀城は衰退し、立緑3年(1594)から本格的な建設が始まる伏見城に役割が移され、淀城は廃された。そもそも、淀城も伏見城も平安京から遠く離れた郊外に建てられたもので、大内裏の跡地の内野とは関係がない。

天正13年(1585)、秀吉は従一位・関白に叙任され、翌年から内野の聚楽第(じゅらくだいとも)建設に取りかかった。平安京の大内裏は炎上焼失し、諸官庁の建物群が荒廃した跡地を内野と呼んでいた。内野の東北部に聚楽第が建てられ、諸大名や臣下、茶頭の千利休などの屋敷を周囲に配した。

聚楽第の外郭を現在の通りの名でいうと、諸説あるが、南北は下立売通と元誓願寺通、東西は堀川通と千本通に囲まれ、その中に、全長千間ほどの堀に囲まれた内郭があった。戦闘よりも権威の象徴の建物であり、居住性にも富んでいたようだ。天正19年(1591)、関白の地位と聚楽第とを甥の秀次に譲って秀吉は伏見城に隠退するが、やがて秀次を謀反の容疑で自刃させ、聚楽第を破壊してしまう。

二条城は徳川家康が建てた城だが、それより前、織田信長が足利義昭のために建てた別の建物が二条城と呼ばれたこともある。

(5)解答・・・(イ)聚楽第

 

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(6)慶応3年(1867)、坂本龍馬が海援隊の屯所を置いた、河原町通三条下ル付近の材木商の屋号はどれか。

(ア)池田屋(イ)近江屋

(ウ)酢屋(エ)寺田屋

解説

寺田屋は坂本龍馬とは深い関係にあったが、河原町三条近くではなく、伏見にあった船宿である。伏見と大坂の間を往復する三十石船の乗客のために、乗船を予約し、休憩させるのが伏見の船宿だ。寺田屋に泊まっていた龍馬を、伏見奉行所の幕吏が襲撃したことがある。龍馬は高杉晋作から贈られたピストルを撃って危機を逃れた。寺田屋は今も同地で旅館を営み、龍馬が襲撃された部屋の見学も可能だ。

池田屋、近江屋、酢屋は、いずれも河原町三条の近くにあった。「池田屋は河原町通と鴨川の間、三条通の北側の旅籠である。元治元年(1864)6月、池田屋に集まっていた尊攘派の志士を、近藤勇が指揮する新選組が襲撃し、多数の志士を死傷させた。

酢屋は三条通より一筋南、「車道」と通称されていた小 路の北側の材木商の店だった。高瀬川に沿って木屋町通を 下がればすぐに土佐藩邸があるから、一応の安全は保障されている。龍馬はこの酢屋に海援隊の京都本部を置き、自 分は河原町通蛸薬師下ル西側にあった醤油商人の店の近江屋の裏の土蔵に下宿した。海援隊は、土佐藩から独立した商業組織だとの建前がある。脱藩した責任者の龍馬自身が 藩邸に泊まるのは、悪い印象を与えると懸念したのだろう。

慶応3年(1867)11月15日、近江屋にいた龍馬と、龍馬を訪ねて語らっていた中岡慎太郎が襲撃され、二人とも命を落とした。

(6) 解答・・・(ウ)酢屋

 

 

(ア)~(エ)から選びなさい。

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(7)諸藩の京都藩邸があり、幕末、藩士や浪士の通行も多く襲撃事件も多かったことから、大村益次郎、佐久間象山の遭難地碑が立っている通りはどれか。

(ア)木屋町通(イ)寺町通

(ウ)大和大路通(エ)花見小路通

解説

寺町通の一条から南は、かつての平安京の東京極大路に相当する。豊臣秀吉が天下年間に京都改造を断行した時、多数の寺院を通りの東側に、南北に一列に並べた。寺町通の名は、ここから始まったものである。

幕末になっても、依然として寺町の様態を維持していたから、諸大名の京屋敷が建てられることはなかった。

鴨川の東を三条から南へ真っすぐ通るのが大和大路通 (三条~四条間は現在、縄手通)である。古代の大和街道につながるところから、大和大路通の名がついた。江戸の初期には2町しかなかったが、次第に栄え、鴨東きっての商業地となった。大和大路通の東側、祇園の真ん中を南北に貫くのが花見小路通。

木屋町通は慶長16年(1611)に始まる高瀬川の開削に伴い、高瀬川の東岸に造られた。

開通当初は樵木町通の通称もあった。高瀬川運河の水運を利用した薪、炭、柴、材木を商う商人が軒を連ねてにぎわったが、やがて歓楽業者が進出し、地価が安いのと水連の便がいいのを好条件として大名屋敷が建てられた。

木屋町通の西側、御池から南へ長州、加賀、対馬、岩国、彦根、土佐などの藩邸が並び、木屋町通の東には藩士個人の下宿が並んだ。佐久間象山も大村益次郎も、下宿近くで襲われたのである。

(7) 解答・・・(ア)木屋町通

 

 

 

 

(ア)~(エ)から選びなさい。

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(7)北薬の京都藩邸があり、幕末、藩士や浪士の通行も多く襲撃事件も多かったことから、大村益次郎、仕久間象山の遭難地碑が立っている通りはどれか。

(ア)木屋町通(イ)寺町通

(ウ)大和大路通(エ)花見小路通

 

解説

寺町通の一条から南は、かつての平安京の東京極大路に相当する。豊臣秀吉が天正年間に京都改造を断行した時、多数の寺院を通りの東側に、南北に一列に並べた。寺町通の名は、ここから始まったものである。

幕末になっても、依然として寺町の様態を維持していたから、諸大名の京屋敷が建てられることはなかった。

鴨川の東を三条から南へ真っすぐ通るのが大和大路通(三条~四条間は現在、縄手通)である。古代の大和街道につながるところから、大和大路通の名がついた。江戸の初期には2町しかなかったが、次第に栄え、鴨東きっての商業地となった。大和大路通の東側、祇園の真ん中を南北に貫くのが花見小路通。

木屋町通は慶長16年(1611)に始まる高瀬川の開削に伴い、高瀬川の東岸に造られた。

開通当初は樵木町通の通称もあった。高瀬川運河の水運を利用した薪、炭、柴、材木を商う商人が軒を連ねてにぎわったが、やがて歓楽業者が進出し、地価が安いのと水連の便がいいのを好条件として大名屋敷が建てられた。

木屋町通の西側、御池から南へ長州、加賀、対馬、岩国、彦根、土佐などの藩邸が並び、木屋町通の東には藩士個人の下宿が並んだ。佐久間象山も大村益次郎も、下宿近くで襲われたのである。

(7)解答・・・(ア)木屋町通

 

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(8)新京極は、明治初め、京都の振興を図るために造られたが、その生みの親は誰か。

(ア)槇村正直(イ)岩倉具視

(ウ)長谷信篤(エ)北垣国道

解説

京都府の初代知事は、公家出身の長谷信篤である。安政5年(1858)、幕府が朝廷に対し、日米修好通商条約への勅許を要請した時、88人の勅許反対の公家の一人として、岩倉具視などとともに名を連ねた。

長谷信篤は尊皇攘夷派優勢の政局で国事御用掛、議奏となったが、文久3年(1863)の8月18日の政変で議奏罷免、他人面会禁止の処分を受けた。慶応3年(1867)5月に復活し、維新政府の参与、議定、大津裁判所の総督を経て、慶応4年(1868)閏4月に初代の京都府知事になったが、実務のほとんどは参事の槇村正直が執行していた。

長谷は明治8年(1875)に更迭され、長谷知事の参事だった槇村正直が二代目の知事になった。当初は権知事、間もなく知事に昇進する。

槇村は長州藩士で、新政府の重鎮の木戸孝允の系列に属していた。木戸の権威を背景として、少々の無理なら通してしまう政治力があった。寺町通東側に三条から四条まで小路(新京極通)を通し、小路の東西に歓楽業者を誘致して一大歓楽街を造ってしまおうという大事業も、長州出身で木戸孝允の系列下にある槇村だからこそ可能だった。

岩倉具視は新政府の右大臣という要職についたが、京都府の役人になったことはない。

北垣国道は、明治14年(1881)から25年(1892)まで京都府知事を務め、琵琶湖疏水を完成させた。

(8) 解答・・・(ア)槇村正直

 

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(9)現存する鉄道関係施設としては最古のもの「ランプ小屋」と呼ばれる煉瓦造りの建物はJR奈良のどの駅の構内にあるか。

(ア)宇治駅(イ)稲荷駅

(ウ)東福寺駅(エ)六地蔵駅

解説東海道本線の京都一大阪一神戸間は、明治10年(1877)に正式開業した。京都一大津(今の浜大津)間の開業は明治13年(1880)だが、当時の経路は現在とは異なっていた。京都駅を出ると真っすぐに稲荷駅まで南下し、現・名神高速のルートで山科へ出て大谷駅、そして旧逢坂山トンネルを抜けて大津に出ていた。大正10年(1921)に京都一大津間の路線が変 更されたのに伴い、稲荷駅は東海道線から奈良線の駅に変 わった。

稲荷駅の建設工事は、明治11年(1878)に始まった。駅の本屋とともに、信号灯や照明灯の収納施設として造られたのが通称「ランプ小屋」である。稲荷駅の「ランプ小屋」は、最古の鉄道施設として大切に保存されている。宇治駅は明治29年(1896)に開業した。平成12年(2000)に改修され、駅舎には平等院鳳凰堂を模したデザインが取り入れられた。「ランプ小屋」は宇治駅が管理している。

東福寺駅は、昭和32年(1957)に開業した。先に開業していた私鉄の京阪電鉄との共同使用駅であるために、駅舎面積に余裕のない、窮屈な造りになっていたが、平成15年(2003)に改良工事が行われた。

六地蔵駅は平成4年(1992)に開業した。近くに京阪電 鉄宇治線の六地蔵駅がある。

(9) 解答・・・(イ)稲荷駅

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 

1歴史・史跡に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(10)琵琶湖疏水の支流にある水路閣は、明治21年(1888) ローマ帝国の水道を参考に建築されたといわれるが、どの寺院の境内にあるか。

(ア)清水寺(イ)東福寺

(ウ)知恩院(エ)南禅寺

解説

京都府第三代知事北垣国道が、新進の工学士の田辺朔郎や測量士の島田道生を起用して断行した一大プロジェクト、それが琵琶湖疏水の建設である。長等山にトンネルを開削し、琵琶湖の水を京都に「流して古都再生のエネルギーとする。蹴上の第三トンネル出口と岡崎川の標高差は36メートルである。これを利用して水車を回転させ水力発電を行い、工業エネルギーに使うことが当初の目的のひとつだった。ほかの主要な目的として、琵琶湖と京都の間の運河として利用する計画があった。

琵琶湖疏水は、滋賀県大津市の琵琶湖取水地から、京都市伏見区で一級河川濠川となる地点までの全長約20キロメートルの運河でもある「第一疏水」、および蹴上付近から分岐してきた白川に至る全長約3.3キロメートルの枝線 分線としての「疏水分線」からなる。後年、第一疏水とほぼ同じ取水地点から全線トンネルで、蹴上付近で第一疏水と合流する全長7.4キロメートルの「第二疏水」が建設された。

疏水分線は、第一疏水建設当初、幹線水路として計画されていたが、計画変更により規模を縮小。結果、沿線への 灌漑、防火用水等の供給を主要目的とし、南禅寺周辺の庭園の発達にも寄与した。初めは簡単な石組みですませる予定だったそうだが、名刹・南禅寺の境内を通るからには美の観点も必要だと、堂々たるアーチの水路閣が造られた。

(10)解答・・・(エ)南禅寺

 

 

 

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なもの (ア)~(エ)から選びなさい。(11)~(20)

(11)境内の森が古くは「鳩の森」と呼ばれ、源頼政の鳩退治の伝説がある神社はどこか。

(ア)粟田神社(イ)八坂神社

(ウ)大将軍神社(エ)若宮八幡宮社

解説

源頼政は77歳という高齢をおして平家打「倒に立ち上がったが、武運つたなく、宇治で自刃した。

清和源氏の頼政は保元の乱では官軍、平治の乱では平家にくみして従三位まで上った。内裏の守護役を命じられたのが、頼政と鳩の伝説のもとになった。

近衛天皇のとき、「頭は猿、骸は狸、手足は虎、尾は蛇、鳴く声はトラツグミに似ている」怪物が現れ、天皇を苦しめた。二条天皇のときには「鵺という怪鳥」が夜な夜な現れて鳴き、天皇を悩ませた。頼政が召され、2度とも見事に怪物を射落としたのは幸運だったが、頼政自身としては「武士たるものが怪物退治を命じられるとは」と、やる瀬ない気分を味わったと『平家物語』は伝える。

東山三条西一筋目を下がったところの大将軍神社は境内の森が「鳩の森」と呼ばれ、頼政の鵺退治の伝説が残るといわれる。

綾小路通高倉の神明神社は、頼政が鵺退治の成功を祈願もし、成功のお礼に厳を奉納した故事がある。頼政が奉納した鉢は、今でも所蔵されている。

NHK京都放送局の南の二条公園の辺りは「鳩の池」の跡地として知られ、頼政が嫌についた想の血を洗い落とした池だと伝えられる。ここには「鵜池碑」が立っている。

(11) 解答・・・(ウ)大将軍神社

 

 

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(12)応徳3年(1086)、白河上皇が院御所の鳥羽殿造営時に鎮守として祀られたと伝えられる神社はどこか。

(ア)御香宮神社(イ)城南宮

(ウ)藤森神社(エ)離宮八幡宮

解説

白河天皇が善仁親王(堀河天皇)へ譲位すると決めたのは、応徳3年(1086)の前半だったろう。

7月に、上皇として院政を行う後院の造営に着手した。『扶桑略記』に「九条以南の鳥羽山荘に新たに後院を建つ。およそ百余町を下す」と書かれているように、広大な敷地が確保された。京都の中の里内裏や院御所は、せいぜい四町の敷地なのに、鳥羽の後院の敷地は百余町だった。

平安京の羅城門をくぐって京外へ出ると、作道が続く。作道の突き当たるところが鴨川と桂川が合流する三角洲、 つまり烏羽である。鳥羽の後院だから、鳥羽殿の名称がついた。造営のにぎにぎしい様子はまるで遷都のようだったと、『扶桑略記」に述べられている。

南殿御所、北殿御所、馬場、馬場殿御所、泉殿御所と次々建てられ、鎮守社として城南宮が建てられた。城南宮の中に、城南寺が建てられたともいう。

藤森神社は伏見稲荷大社の南にあり、神功皇后や素戔鳴尊、天武天皇や早良親王を祀っている。武神の性格が強い神社である。

離宮八幡宮は乙訓郡の大山崎町にあり、大分県の宇佐から勧請された八幡神は、ここに最初に祀られたという伝説がある。

御香宮神社は伏見の産土社である。豊臣秀吉が大亀谷に移して伏見城の鬼門の守護神としたが、徳川家康が旧地の現在地に戻した。

(12) 解答・・・(イ)城南宮

 

 

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい

(13)敷地神社はわら天神と呼ばれ、その名前に由来するご利益は何か。

(ア)火除け(イ)方除け

(ウ)交通安全(エ)安産

解説

わら天神は鹿苑寺(金閣寺)の南東にあり、正式の社名は敷地神社である。木花開耶姫命を祭神とする。大北山村の産土神であり、北山袖・北山天神と呼ばれた時期もあった。農耕を守護する天神信仰の社だった歴史がうかがえる。

創建の時期は分からないが、天長5年(828)に淳和天皇が勅使を派遣して止雨を祈願した記録が残り、神威が出敬されていたのが分かる。

古くは大北山の麓にあったが、足利義満が造営した北山殿(後の金閣寺)の敷地に含まれるので現在地に移された。安産の神として信仰され、祈祷者にはわらの護符が授けられる。わらに節があれば男子、節がなければ女子が生まれるというところから「わら天神」が通称となった。

境内摂社の六勝神社は、倉稲魂神など六柱を祀っている。「六勝」の名にちなんで、勝負事の神として信仰を集めている。

「火除けの神として、篤く信仰されるのは愛宕神社が第一だろう。

方除けの利益で有名な社は、上京区の一条通御前西にある大将軍八神社である。大将軍は陰陽道では西を守る神とされており、この地が平安京の西北だから、方除けの信仰が根付いた。城南宮も方除けの大社として知られる。

交通安全の護符を授ける社寺は数多くあるが城南宮や理谷山不動院などが有名だ。

(13)解答・・・(エ)安産

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(1)北野天満宮の境内末社である伴氏社、京都御苑内の厳島神社とともに、「京都三珍鳥居」がある神社はどこか。

(ア)蚕の社(イ)錦天満宮

(ウ)護王神社(エ)大豊神社

解説

北野天満宮の境内末社の伴氏社は、菅原道真の母の伴氏を祀っている。東面する社前の鳥居は鎌倉時代の作とされ、額束が島木の間に割り込み、柱の下に単弁の蓮華座がある。

京都御苑の厳島神社の石鳥居は、笠木にあたる部分が唐破風型の珍しい鳥居であり、重要美術品に指定されている。

伴氏社、厳島神社の鳥居と合わせて「京都三珍鳥居」と称されるのは、蚕の社の鳥居=写真=である。右京区の太秦の東方、御室川の西にある木島神社は秦氏ゆかりの古い社で、大宝元年(701)の記録が『続日本紀』に残る。蚕の社は木島神社本殿右にあり、正式には養蚕神社という。太秦一帯は、秦氏が伝来した養蚕・製糸・機織・染色の技術で栄え、養蚕にちなんで信仰された。

境内に元紀の池があり、池の上段に三方正面、つまり三本柱の鳥居がある。

三面鳥居などと呼ばれている。

錦天満宮は、錦小路新京極にある。鳥居の両端が、民家の壁に突き刺さっているのが珍しい。

護王神社は烏丸通出水上ルにあり、祭神は和気清麻呂。清麻呂の故事にちなみ、狛犬の代わりに猪の像がある。

大豊神社は鹿ヶ谷にある。本殿横のモミの木は、樹齢約400年という。

(14) 解答・・・(ア)蚕の社

 

 

 

 

 

ここに関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(15)神泉苑は、平安京造営の際の禁苑で、法成就池に善女龍王を祀り、祈雨の霊場ともされたが、これに由来すると伝えられる通り名はどれか。

(ア)小川通一(イ)御池通

(ウ)冷泉通(エ)出水通

解説

平安京の禁苑として造営されたのが神泉苑である。南北は二条から三条までの4町、東西は大宮大路から壬生大路の間の2町を占めていた。

もともとは森林地帯であり、自然の森や池沼を利用して設計されたといわれる。正殿を乾臨閣といい、東西に釣診や滝殿、橋などを配した。

池は法成就池といい、天皇の主宰による降雨祈祷の場として重要視された。東寺の空海と西寺の守敏が、降雨祈願の呪力を争った逸話は有名だ。

神泉苑はやがて衰え、縮小し、二条と三条の間を通る三条坊門小路が神泉苑の南境と意識され、三条坊門小路を尊称して「御池通」と呼ぶようになったようだ。その時期がいつだったか、判然とはしないが、豊臣秀吉の市街大改造の後ではなかろうか。

小川通は秀吉の市街改造で開通されたといわれる。西側を流れる小川が通りの名になった。

冷泉通は、明治期の琵琶湖疏水の開通や平安神宮設立に伴って開発された。

出水通は近衛通ともいう。丸太町通と中立売通の間の東西路である。大宮通から東は、平安京の近衛大路に相当する。聚楽第の南辺路だったという説もある。烏丸の西の湧き水があふれたことがあり、出水通と呼ばれた。

(15)解答・・・(イ)御池通

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(16)皇族・貴族の子弟が入寺・継承した特定の寺院を門跡寺院と称したが、天台宗の「三門跡」といえば、青蓮院、妙法院と、もう一つはどこか。

(ア)三千院(イ)実相院

(ウ)曼殊院(エ)毘沙門堂

解説

天台座主の行玄が天養元年(1144)に住んだ三条白川坊が、青蓮院の始まりである。鳥羽法皇の第七皇子の覚快が入寺し、行玄の比叡山上の住坊の名をとって青蓮院とし、門跡寺院となった。

比叡山西塔本覚院の昌雲が新熊野神社の別当になり、法住寺付近を里坊としたのが妙法院の始まりだ。後高倉院の第一皇子の尊性法親王が入寺し、さらに天台座主の地位についたことで門跡寺院となった。皇后門跡、新日吉門跡と称されることもある。

最澄が比叡山東塔南谷の梨の大木の下に円融房を構えたのが、三千院の始まりだという。円融房のほか梨本坊・円徳院・梶井門跡の名があり、三千院となったのは明治4年(1871)のことである。白河天皇の中宮賢子の菩提所の円徳院が、坂本の梶井に建てられて里坊となり、円融房が本 坊となった。堀河天皇の皇子の最雲法親王が、大治5年(1130)に入寺して門跡寺院となった。

以上の青蓮院、妙法院、三千院が天台宗の「三門跡」である。

実相院は岩倉にある。摂関家の子弟の入手によって岩倉門跡と称した。曼殊院は一乗寺にある。伏見宮貞常親王の皇子の入寺によって、門跡寺院となった。竹内門跡の称もある。毘沙門堂は山科の安朱にある。後西天皇の皇子の公弁法親王の入寺によって門跡寺院となった。

(16)解答・・・(ア)三千院

 

 

 

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(17)応仁の乱以後、上京の革堂に対する下京の町堂として親しまれ、本堂前に京都の中心を表すへそ石のある寺院はどこか。

(ア)因幡堂(ウ)達磨堂

(イ)真如堂(エ)六角堂

解説

因幡堂は因幡薬師とも呼ばれ、松原通の烏丸東入ル上ルにある真言宗のお寺。正しくは平等寺という。朝廷の信仰が篤かったが、室町時代には庶民も信仰した。

応永25年(1418)に因幡堂をめぐる園城寺と聖護院の争いが起こり、園城寺の衆徒が因幡堂を攻撃するとの風聞が立った。因幡堂の近辺の民衆が集まり、昼夜にわたって警戒したと「康富記」に書かれている。革堂と同じように、因幡堂にも町堂の役割があったわけだ。

真如堂は正しくは真正極楽寺といい、鴨川の東、つまり洛外にあった寺だから町堂の機能は持たない。

達磨堂は、円福寺(八幡市)の通称。境内の達磨堂に安置されている達磨は日本三達磨の一つとされている。

六角堂は正式には頂法寺といい、六角通東洞院にある天台宗の寺院である。聖徳太子の創建と伝えられ、嵯峨天皇の勅願所となった。室町時代の住職に立花の名手を数多く輩出し、現在は華道家元「池坊」の本拠となっている。境内に「へそ石」と称される石が埋まっている。以前の頂法寺の中心にあったものだろうが、近世の京都の中心だとする見方もある。

応仁・文明の乱の後、町衆が結集する場、いわゆる「町堂」の機能を持つようになった。天文法華一揆の結集地なったこともあり、三好三人衆が入洛しようとした時には、六角堂の鐘が突き鳴らされて町衆に危機を知らせた。

(17)解答・・・(エ)六角堂

 

 

 

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(18)東寺の五重塔は、現存する木造塔では最も高く、京都の景観的シンボルとなっているが、その総高は約何メートルか。

(ア)35メートル(イ)45メートル

(ウ)55メートル(エ)65メートル

東寺は止式には教王護国寺といい、如来を本尊とする、東寺真言宗の総本山である。

桓武天皇は平安京遷都に際して、新しい寺院の建築や移転を厳しく禁止した。しかし、天皇は羅城門の東西に東寺と西寺を建てた。東寺も西寺も、官の寺として別格の扱いだった。

「笠江人」という人物が、延暦16年(797)に西寺造営の次官に任命されたとの記事が『類聚国史』にみえる。東寺についても事情は同じだろうから、遷都4年目には早くも東西両寺の造営が進行していたと推測できる。

大規模な造営で、工事は遅々として進まなかったようだが、一応の完成をみた後、弘仁14年(823)に東寺が空海に勅賜されたことによって伽藍は壮大になった。空海は講堂を築造し、五重塔の造営に着手するなど、真言密教の道場としての体裁を整えたのである。

五重塔は国宝に指定されている。三間五重の塔婆で、屋根は本瓦でふいてある。現存する日本の塔の中では最も高く、総高は約55メートルである。天長3年(826)に空海が東山で巨木を発見、伐採して塔の建築に取り掛かったが、容易には進歩しなかった。元慶7年(883)に山城国などから東寺の塔建設のための稲穀を納入させて以降、工事は捗ったが、空海はもはやこの世の人ではなかった。

(18)解答・・・(ウ)55メートル

 

 

 

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)〜(エ)から選びなさい。

(19)宋から喫茶の風習を持ち帰り、禅宗と共に業者が広めた栄西が開いた寺院はどこか。

(ア)建仁寺(イ)大徳寺

(ウ)高山寺(エ)南禅寺

解説,

栄西(ようさいとも)の俗姓は賀陽といい、備中の出身である。入宋し、天台山の臨済宗黄竜派の虚庵懐敵に参じて印可を得た。建久の(1191)に帰国して筑前で禅の布教に努め、さらに京都での布教に努めたが、延暦寺の妨害工作のために朝廷から布教を禁じられた。

「興禅護国論」をまとめて世に示したが、世に受け入れられず、鎌倉に赴き、北条政子や源頼家らの帰依を受けでの布教を許され、正治2年(1200)に鎌倉の寿福寺の初代住職となり、建仁2年(1202)に京都に建仁寺を創建した。建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山である。

栄西は、喫茶の原論「喫茶養生記』を執筆して将軍実朝に献じたことがある。

大徳寺は、宗峰妙超が赤松則村の帰依を受けて正和4年(1315)に紫野に創建した禅寺で、臨済宗大徳寺派の大本山である。後醍醐天皇によって、京都五山の上に列する寺格を得た。創建の年代については諸説がある。

高山寺という名の寺院は、京都市内に二寺ある。右京区の得尾にある高山寺は真言宗の単立寺院で、石水院は国王に指定されている。右京区の西院にある高山寺は浄土宗の寺院で、本尊の子安地蔵が安産の地蔵として崇敬される。

南禅寺は左京区の南禅寺福地町にあり、臨済宗南禅寺の大本山である。文永元年(1264)、亀山天皇が生母の大宮院の御所として建てた禅林寺殿という離宮が始まりである。

(19)解答・・・(ア)建仁寺

 

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

2神社・寺院に関する記述について、最も適当なものを次の(ア)~(エ)から選びなさい。

(20)豪商、佐野(灰屋)紹益の妻となった吉野太夫が、開創の日乾に帰依したことから、吉野太夫ゆかりの寺として知られる寺院はどこか。

(ア)廬山寺(イ)常照寺(ウ)常照皇寺(エ)立本寺

解説

吉野太夫は六条三銃町の芸妓だった。14歳で太夫に昇進し、吉野(二代目)を名乗った。和歌や茶の湯、香道などの芸能に優れ、関白の近最後華や歴といった京都の上層階級の贔屓を受けた。

灰屋紹経の本姓は佐野といい、本阿弥光益の子で、佐野家の養子となった。阪の問屋として富を築いていた。本や松永真態、後水尾天皇や智仁親王との交際があった。8年(1631)に吉野を身請けして妻とした。意永20年(163)に亡くなった吉野を追慕した、悲痛の思いの歌がある。

都をば花なき里となしにけり

吉野を死出の山にうつして

吉野は、日速宗中興三師の一人である日乾上人に帰依した。その日花が鷹峯に創建した常照寺の朱塗りの山門は、本尊が寄進したもので「吉野の赤門」の名がある。日乾の幕の後ろに吉野の墓がある。毎年4月の第3日曜日には、吉野を偲ぶ「吉野太夫花供養」が行われる。

上京区の立本寺は日蓮宗の寺院。佐野家の菩提寺で、佐野紹益の墓がある。

廬山寺は、上京区の寺町広小路にある圓浄宗の本山。元三大師良源が、天慶年間(938~47)に北山に開いた与願会期が始まりである。常照皇寺は右京区京北の山中にある臨済宗の寺である。

(20)解答・・・(イ)常照寺