(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

1次の問いに答えなさい。(1)~(10)

(1)江戸幕府の朝廷圧迫政策を不満として退位した後、自らの隠せいの地として、現在の修学院離宮となる山荘を造営した上皇は誰か。

解説

徳川家康は、孫娘の和子を後水尾天皇の女御として入内させ、立后の儀を執り行った。家康は権力と財力にものをいわせ、久しく行われなかった立后の儀を実現、征夷大将軍の力の楔を朝廷に打ち込んだ。家康はなおも、「禁中并公家諸法度」を押し付けることで天皇の政務を縮小した。寛永4年(1627)に幕府は、元和元年(1615)以後に発せられた紫衣勅許を取り消す命令を発布した。天皇は失望し、譲位の決意を固め、寛永6年(1629)、興子内親王(明正天皇)に譲位、洛北に山荘を建てて隠せいした。これが修学院離宮である。

(1)解答例・・・後水尾上皇

 

 

 

 

 

(2)二条城は将軍上洛の際の居館として築かれたが、徳川家光の次に、久方ぶりに上洛した将軍は誰か。

解説

徳川第二代将軍の秀忠は、元和9年(1623)

6月8日に上洛して二条城に入った。子の家光は寛永11年(1634)に大軍勢を率いて上洛し、二条城に入った。その後、長年にわたって将軍上洛はなく、文久3年(1863)3月4日、第十四代将軍徳川家茂が約230年ぶりに上洛して二条城に入り、3月5日に参内して孝明天皇に会った。皇女和宮の降嫁に礼を述べ、攘夷破約の期限を奏上するための上洛だった。

(2)解答例・・・徳川家茂

 

 

 

 

 

1次の問いに答えなさい。

(3)菖蒲の節句発祥の神社といわれ、勝運と馬の神社としても知られている神社はどこか。

解説

朝鮮半島での戦闘から帰国した神功皇后が、旗と武器を埋めたとされる地に創建されたのが藤森神社。旗を埋めたという場所に、「旗塚」がたつ。

素戔嗚尊や神功皇后、日本武尊、武内宿禰ら勇壮な神々が祀られている。桓武天皇の皇太子の早良親王を大将軍として外敵の襲来を防ぐ計画が立てられ、藤森神社が「弓兵政所」に指定された指定されたという伝承があり、境内に碑が立つ。境内に菖蒲抗がある。毎年5月5日(こどもの日)に藤森祭(深草祭)が行われる。菖蒲の節句の発祥の祭りとされ、節句の武者人形には藤森の神が宿るという。

(3)解答例・・・藤森神社

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 



 

(4)かつて白峯神宮の地に邸宅があり、和歌の宗家であるとともに、蹴鞠の宗家としても知られているのは何家か。

解説

白峯神宮の敷地には、かつて飛鳥井家の別邸が建てられていた。飛鳥井家は雅経を祖とする公卿である。

雅春と雅庸は豊臣秀吉、徳川家康の歌道の師範を務め、雄章は後水尾天皇の門人として古今伝授を受けられる光栄に浴した。蹴鞠の家としても名があり、雅康には「歌道抄』と「将条々大概』の著述がある。江戸時代の家禄は九百二十八石。雅典は議奏や武家伝奏に任じられた。

孝明天皇は崇徳上皇の霊を讃岐の白峰から迎えようとして果たせず、明治天皇が実現して白峯神宮が創建された。

(4)解答例・・・飛鳥井家

 

 

 

 

 

 

 

1次の問いに答えなさい。

(5)国の天然記念物に指定されている樹齢約600年の「遊龍松」で有名な、西山宮門跡とも呼ばれていた寺院はどこか。

解説

天然記念物の「遊龍松」は五葉松で、大原野小塩町の善峯寺の境内にある。善峯寺は因幡出身の源算が苦難の末に創建したと伝えられ、治暦4年(1068)の大旱魃の時に、源算の必死の祈祷での上から雨が降ってきたのを賞して、「良峰」の勅額が下賜されたとされる。室町幕府の厚い保護を受けて、境内は三尾四谷に広がり、堂舎僧坊は50を超えたが、応仁・文明の乱で伽藍は壊滅状態、寺領もちりぢりになった。豊臣秀吉の庇護と桂昌院の援助で、旧勢に戻った。

(5)解答例・・・善峯寺

 

 

 



 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

(6)良弁が創建したと伝えられる加茂町の寺院で、鎌倉時代初期に建てられた国宝の五重塔がある寺院はどこか。

解説

良弁は奈良・東大寺の開山である。その良弁が天平7年(735)に、聖武天皇の勅で、十一面観音像を本尊とする藤尾山観音寺を創建した。それが、補陀落山海住山寺の前身だと伝えられる。12世紀の初めに火災に遭ったが、奈良の解脱上人貞慶が再興した。この時に、観音の浄土の意から補陀落山と号したというが、広大な瓶原に屹立する三上山の中腹に位置する海住山寺はまさに補陀落である。建保2年(1214)に建立されたという五重塔は、国宝に指定されている。

(6)解答例・・・海住山寺

 

 

 

 

 

 

 

1次の問いに答えなさい。

(5)寛永5年(1628)再建された南禅寺の三門は、誰の寄進によるものか。

解説

亀山天皇が、母の御所として禅林寺殿という離宮を建て、やがて禅寺としたのが南五山の第一位に位置づけられた。応仁・文明の乱で焼亡したが、豊臣秀吉と徳川家康の援助で復興に向かった。勅使門と仏殿(法堂)の間の三門は、秀吉や家康に仕えた近江の大名・藤堂高虎の

寄進によるもの。上層の楼は五鳳楼の名があり、家康・高虎・金地院崇伝の木像、藤堂家歴代の位牌、大坂夏の陣の藤堂家の戦死者の位牌が安置される。

(7)解答例・・・藤堂高虎

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

(8)蓮華寺は、加賀藩家老の今枝民部近義が再興したとされているが、この再興に石川丈山や狩野探幽らとともに協力した江戸時代前期の朱子学者は誰か。

解説

東塩小路に蓮華寺という時宗の寺があったが、応仁・文明の乱で荒廃し寛文2年(1662)に今枝近義が現在地(左京区上高野)に再建した。近義は加賀藩前田家の家老で、八条宮智仁親王の桂の別荘(桂離宮)の造営に尽力した人物である。和田家の娘の富姫が、智忠親王(智仁親王の第一皇子)に輿入れしたことによって、八条宮家と前田家との関係は深くなり、近義の祖父の重直は姫の付き添いとして在京した。近1祖父の菩提を弔うために、蓮華寺を再興した。首や文化人と交流があり、境内の重直顕彰碑の碑文は朱子学者の木下順庵が書いた。

(8)解答例・・・木下順庵

 

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP

 

 

 



次の問いに答えなさい。

(9)龍安寺の茶室・蔵六庵の前にある、水戸光圀が容進したといわれる手水鉢には、漢字四文字で何と書かれているか。

解説

龍安寺の茶室・蔵六庵は、方丈の東北にある。蔵六庵の手水鉢は穴あき銭の形をしている。中央の四角形の孔を漢字の偏または境などの「口」と見立て、上から時計回りに「五」「隹

」「疋」「矢」の4宇を配して「吾唯足知(吾れ唯だ足ることを知る)」と読むことになっている。禅の境地といったものを示すものと解釈される。この手水鉢は水戸徳川家二代の徳川光圀が寄進したものと伝えられる。

(9)解答例・・・吾唯足知

 

 

(10)大徳寺の塔頭・芳春院にある「京の四閣」の一つに称される楼閣を何というか。

解説

大徳寺の塔頭の芳春院は、加賀藩の祖の前田利家の夫人・松子が創建したもので、「開山は玉室宗珀。芳春院は松子の院号である。芳春院の庭園は、枯山水式庭園の花岸庭と二重の楼閣呑湖閣に臨む池 「泉回遊式庭園の二景から成り立っている。本堂の裏に飽雲池があり、打月橋を渡ると呑湖閣に行き当たる。呑湖閣の名称は「大海を呑み込む」気概を込めたものだという。元「和3年(1617)に横井等怡が小堀遠州と図って設計・造営したもので、打月橋に掲げられる打月の額は、玉室宗珀の書である。金閣・銀閣・西本願寺の飛雲閣と合わせて、京の四閣と称されている。

(10)解答例・・・呑湖閣

 

 

 

 

 

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次の問いに答えなさい。(11)~(20)

(1)六波羅蜜寺の「空也上人立像」の作者である康勝は何派の仏師か。

解説

宇治の平等院の阿弥陀如来坐像を作った師の定朝である。定朝の孫弟子(孫とも)の円勢から始まる仏師の系統を「円派」といい、同じく孫の院助に始まる広統を「院派」という。定朝の孫の頼助は京都から離れて奈良に行き、興福寺を拠点として仏像製作を続けたので奈良仏師と呼ばれた。頼助の孫(曾孫とも)のこう康慶から始まる系統の仏師は名前に「慶」の字をつけたので「慶派」と呼ばれる。

康慶の子の運慶が京都に進出し、東寺大仏師に就いた。運慶の子の一人が連勝で 六波羅蜜寺の空也上人立像の作者である。

(11)解答例・・・慶派

 

 

 

 

 

 

(12)相国寺の法堂天井に描かれている龍は「鳴き龍」として知られるが、この「蟠龍図」の作者は誰か。

解説

相国寺は室町幕府三代将軍の足利義満が創建した。相国寺の歴史は火災の繰り返しである。豊臣秀吉の息子・秀頼と徳川家康の援助で戦乱の元発から復興したが、天明8年(1788)の火災で伽藍の大を失った。法堂・浴室・迷9院は幸いにも焼亡を免れ、狩野光信が慶長10年(1605)に法堂の天井に描いた「蟠龍図」が残っている。光信は永徳の長男で、父の没後に一門を統率した。豊臣秀吉に命じられて肥前名護屋城の屏風を描いたとされ、法然院の「花鳥図」、本圀寺の「源氏物語絵」などの作品がある。

(12)解答例・・・狩野光信

 

 

 

 

 

 

 

 

2次の問いに答えなさい。

(13)大胆な構図、たらしこみ技法などに特色が見られる、俵屋宗達を創始者とする画派は何というか。

解説

琳派の名称の起こりとなった尾形光琳は元禄時代の京都の画家だが、琳派の美術の発祥は、寛永時代にさかのぼる。刀剣の鑑定や研ぎを家業とする京都の家に生まれた本阿弥光悦は、平安王朝の伝統美に影響された書や陶芸・漆芸を展開した。裕福な京の町人の家から出た俵屋宗達は、はじめ光悦の書の下絵を金銀泥絵で描いていたが、「風神雷神図屏風」(国宝)に代表される装飾的大画面で新境地を開いた。さらにたらし込みなど大和絵の手法を用いた新たな水墨画の手法を完成させた。「蓮池水禽図」(国宝)などの作品がある。尾形光琳も裕福な町人の家の出身で、光悦や宗達に強く影響された。宗達の死後には宗達の画風を復興しようと志した。

(13)解答例・・・琳派

 

(14)高倉錦小路の青物問屋に生まれ、独自の花鳥画を完成、特に鶏図を得意とした江戸中期の画家は誰か。

解説

リアルそのものの構図や色彩で、動物や植物の絵を描いた画家が伊藤若冲である。京都の錦の八百屋の長男だが、40歳で弟に家業を譲り、画家の生涯を貫いた。初期は狩野派に学び、中国の古画も参考にする一方で、写実を基本とする独特の画法を完成させた。特に鶏図が有名だが、宝暦8年(1758)ごろから十数年を費やして完成させ、相国寺に寄進した「動植祭絵」のような、動植物の写実も多い。晩年は伏見に住み、米一斗の謝礼で絵を描いたことから「米斗翁」と号した。

(14)解答例・・・伊藤若冲

 

2次の問いに答えなさい。

(15)京箪笥や机、下駄、茶道具など金具を使わず木板を組み合わ瀬たり、ホゾ指し込んだりして作る木製品で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品は何か。

解説

伝産法によって、伝統的工芸品産業に指定されている京都の木工芸産業を京指物という。奈良時代の唐風の技巧を受け継いだ、平安王朝の宮廷の作事を下地として京指物が誕生したわけだが、平安時代には木工寮に勤務する大工職が公務として作業を行っていた。民間の指物師が活躍するのは、室町時代以降のことと推定される。戦国時代から江戸初期にかけて、茶道界からの需要が高まり、京の指物は一段と飛躍を遂げる。京指物には2種があり、箪笥や文机、棚などを調度指物といい、茶道の棚や折敷、盆などを作るのを茶道具指物という。

(15)解答例・・・京指物

参照:公式テキスト(書籍/PDF/無料等)

 

(著), 森谷 尅久 (監修), 京都商工会議所 (編集)
出版社:淡交社; A5版、出典:出版社HP